step6は一人根競べ
6月なのでstep6です。
5までを終えると前にも書いたように自己開示による開放感を感じる事ができます。
そのカタルシス的なものに浸る事ができる時間は結構長いのですが、step5の主たる目的である自己分析を終えたら、自己の欠点を直すために具体的な行動を起こしていかないと一向に問題を解決する事はできません。
自己開示は単に部屋の換気をしただけで、ゴミは溜まりっぱなしだという事を忘れてはいけません。
ゴミを溜めてしまう自分の心理について、ゴミを溜めてしまう大元の原因について分析したのであれば、今度はゴミを溜めない新たなパターンを起こしていかなければいけません。
ゴミを溜めない新たなパターンなんて一体どうしたらいいのか、と思い悩むかもしれませんがそれはしごく簡単な事ですので実行しようと思えばすぐに実行できます。
今までやっていた事の反対の事をすればよいだけです。
悪い事をして謝れなかったなら、悪い事をしたら謝る。
挨拶ができないなら、挨拶をする。
話しかけられないなら、話をする。
ゴミを溜めるパターンの反対をすれば、当然ゴミは溜まらんのです。
まずはこういう事をするだけです。
簡単に書きましたけどね、実際やろうとするとこれは結構エグイ事です。
分かっていても、変えなければいけないと思ってはいても、実際何も出来ていない。
挨拶できなかったから、話しかける事ができなかったから、謝る事が出来なかったから、だから今の自分になっている事は分かっているけれど、今でもうらみに思っていて自分の行動を制限されていることも分かっているけれど、でも変えられない。
自己開示のカタルシスが消えた後にそのように感じる日々が続いているのなら行動を起こすべきです。
神頼みといいますけれど、神様は頼まれなければ向こうからは動いてくれませんよ。
自分から動かない限り、何も変わりません。
大人と子供を分けるステップといわれる所以はここにあるのだと思います。
自分が動かないと、誰も何ともしてくれないのです。
家族だって友人だって仲間だって神様だって、本人が動こうとしないのであれば何もできないのです。
自分の問題を解決するのは自分しかいないのだと、腹くくって、怖気づいても立ち向かって、凹んでもそれを乗り越えて、少しでもよくなりたいと地道な改善を続けていくしかないのです。
自分の力だけで改善できなければ、その時に手をあわせて祈ればいい。
謝る事ができないのであれば、どうか謝らせてくださいと、そう祈ればいい。
謝る気持ちになることができないのであれば、どうか謝る気持ちを私に与えてくださいと、そう祈ればいい。
話しかけることが出来ないなら、どうかどうか一言でも話しかけられるように、それが叶わないならせめて笑顔で会釈する勇気だけでも私に与えてくださいと、そう祈ればいい。
そのように自分が求めれば、自分が真摯に求めた分だけ神は必ずそれを叶えてくださる。
今までやっていなかった事をやってみれば、違う結果が出てくるのは道理でしょう?
その違う結果を見て、周りは徐々に態度を変えてくれるものです。
そして誰かが何とかしてくれると思っていた時には一向に与えられなかったものが、気付いたら何時の間にか与えられていた、という事も実際に起こりうるのです。
5で突き止めた自分の欠点、それに対し抗すべくも無い自分に気付く。
動くべきか、動かざるべきか、日々悶々と過ごし、結局勝てない根競べから脱出できるかどうなのか。
脱出する前にまたステップ1に戻ってもいいけれど、再度の棚卸しとステップ5でまたカタルシスを得ようとするのであれば、それは強迫観念が姿を変えたものだと思ったほうがいい。
逃げるな、逃げるな、逃げるな。
足がガクプルいっててもいい。怖くて震えててもいい。逃げるな。
今まで逃げてきたのだから、その反対の事をするんだ。
step6はそういうところ。
5までを終えると前にも書いたように自己開示による開放感を感じる事ができます。
そのカタルシス的なものに浸る事ができる時間は結構長いのですが、step5の主たる目的である自己分析を終えたら、自己の欠点を直すために具体的な行動を起こしていかないと一向に問題を解決する事はできません。
自己開示は単に部屋の換気をしただけで、ゴミは溜まりっぱなしだという事を忘れてはいけません。
ゴミを溜めてしまう自分の心理について、ゴミを溜めてしまう大元の原因について分析したのであれば、今度はゴミを溜めない新たなパターンを起こしていかなければいけません。
ゴミを溜めない新たなパターンなんて一体どうしたらいいのか、と思い悩むかもしれませんがそれはしごく簡単な事ですので実行しようと思えばすぐに実行できます。
今までやっていた事の反対の事をすればよいだけです。
悪い事をして謝れなかったなら、悪い事をしたら謝る。
挨拶ができないなら、挨拶をする。
話しかけられないなら、話をする。
ゴミを溜めるパターンの反対をすれば、当然ゴミは溜まらんのです。
まずはこういう事をするだけです。
簡単に書きましたけどね、実際やろうとするとこれは結構エグイ事です。
分かっていても、変えなければいけないと思ってはいても、実際何も出来ていない。
挨拶できなかったから、話しかける事ができなかったから、謝る事が出来なかったから、だから今の自分になっている事は分かっているけれど、今でもうらみに思っていて自分の行動を制限されていることも分かっているけれど、でも変えられない。
自己開示のカタルシスが消えた後にそのように感じる日々が続いているのなら行動を起こすべきです。
神頼みといいますけれど、神様は頼まれなければ向こうからは動いてくれませんよ。
自分から動かない限り、何も変わりません。
大人と子供を分けるステップといわれる所以はここにあるのだと思います。
自分が動かないと、誰も何ともしてくれないのです。
家族だって友人だって仲間だって神様だって、本人が動こうとしないのであれば何もできないのです。
自分の問題を解決するのは自分しかいないのだと、腹くくって、怖気づいても立ち向かって、凹んでもそれを乗り越えて、少しでもよくなりたいと地道な改善を続けていくしかないのです。
自分の力だけで改善できなければ、その時に手をあわせて祈ればいい。
謝る事ができないのであれば、どうか謝らせてくださいと、そう祈ればいい。
謝る気持ちになることができないのであれば、どうか謝る気持ちを私に与えてくださいと、そう祈ればいい。
話しかけることが出来ないなら、どうかどうか一言でも話しかけられるように、それが叶わないならせめて笑顔で会釈する勇気だけでも私に与えてくださいと、そう祈ればいい。
そのように自分が求めれば、自分が真摯に求めた分だけ神は必ずそれを叶えてくださる。
今までやっていなかった事をやってみれば、違う結果が出てくるのは道理でしょう?
その違う結果を見て、周りは徐々に態度を変えてくれるものです。
そして誰かが何とかしてくれると思っていた時には一向に与えられなかったものが、気付いたら何時の間にか与えられていた、という事も実際に起こりうるのです。
5で突き止めた自分の欠点、それに対し抗すべくも無い自分に気付く。
動くべきか、動かざるべきか、日々悶々と過ごし、結局勝てない根競べから脱出できるかどうなのか。
脱出する前にまたステップ1に戻ってもいいけれど、再度の棚卸しとステップ5でまたカタルシスを得ようとするのであれば、それは強迫観念が姿を変えたものだと思ったほうがいい。
逃げるな、逃げるな、逃げるな。
足がガクプルいっててもいい。怖くて震えててもいい。逃げるな。
今まで逃げてきたのだから、その反対の事をするんだ。
step6はそういうところ。