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お知らせ

東北6県のGAメンバーの方々へ。


もしこのブログをご覧になられていましたら、東北6県で活動しているそれぞれのグループのメンバーさんと連絡が取りたいのです。
連絡を取りたいその内容は、私個人の私的な用件ではなく、東北の集いと同じく東北のグループの方々にお知らせしたいのと意見をお聞きしたい事があるからなのです。
本当はもっと早く動かなければいけなかったのですが、随分遅くなってしまいました。


とりあえずは6県のGAメンバーさんで、自分が窓口になっても構わないという寛容な方はこのブログの左側にメールフォームを設置しましたのでそこから私に連絡可能なメールアドレスで、グループ名とGAネームを記入の上、メールを頂ければと思います。
後ほど私から返信メールを送ります。


どうぞ宜しくお願いいたします。
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疑いの目線

小学校2年生の九九以来、久しぶりに暗記に励んでいます。
声を出して憲法と試験科目の法令を最初から最後まで読むと2時間以上かかります。
いまさら遅きにすぎるかもしれませんが、条文の正誤問題が出た時はただ覚えているだけで得点する事ができるので下手な問題を解くよりは多分効果はあるでしょう。


一つの本をこんなに読むのは久しぶり。
すでにビックブック以上に読みましたが、未だざるで水をすくっているような感じでさっぱり覚えられません。
(コマッタモンダヨ。。。)
かろうじて勝負になりそうな気がしないではないのですが、圧倒的に分が悪いのは確かです。
ここまで来て、もう少し時間が欲しいと切に思います。
スタートしたのは8月中旬、でもやろうと思えば6月からは勉強スタートできてたのさ・・・
出来る時にやろうとせず、ケツに火がついたら時間が欲しいと思うこの身勝手さ。


「時を守らぬ者は、神にも金にも守られぬ」は某宗教団体の今年のご神言だそうです。


・・・全くもってそのとおりでございます。



世の中の動き的には今の政治の動きや日本を取り巻く周辺環境、随分慌しく不安定。
翻って自分の身の回りの環境、自分の精神状態、身体状態や経済状態を見てみれば、やはり慌しく不安定。
人の粗が目に付く時は、やはり自分の側に大きな問題がある時です。
自分の側に問題がある時はとにかく「でしゃばらない」に限ります。
外部の問題に意見を言わなければ、口にチャックしてる自分の名前が上がる事は無いのです。
でもねぇ、そういう時程口が勝手に動いて喋ってしまうんですよねぇ。
手が勝手に動いてこういうところでも余計な事を書いちゃうわけなんです。


口とペンの抑制ほど大事な事はない、と本には書かれているけれどまさに文字通りです。


我ながら何回も同じ事を繰り返していてよくも飽きないものだと思いますが、やってる時は気付かないのだから自分的には全然飽きてないのです。


冒頭に書いたように法律の勉強をしていると、法律に対する考え方やものの見方を理解しなければいけなくなります。
理解しようとしないかぎり勉強しようと思っても出来ないのです。


ところで日本は三権分立がなされていますが、その三権、立法・行政・司法が互いに懐疑的な見方をしていくのが重要だ、という考え方があります。
あいつのところ、実際ちゃんとやってのか?と、そういう見方をお互いにするわけです。


人の目で常にチェックして見られていれば自然と襟を正さざるを得ない、なので互いにそうやって相手を見ることが大事なのだ、という事らしいです。


一票の格差問題で最高裁は国会に対し、今の違憲状態を何とかしろと、ずっーーーと言ってきたのに国会が放置ぷれーであまりにも何にもしないもんだから、最高裁こないだぶち切れたでしょ?(ちがうとおもうけど)
次の選挙、一票の格差是正しないなら選挙をしてもその選挙結果を無効にすっぞ的な判決。
選挙が無効になるという事は議員資格が与えられないので衆議院が無人になり、実質参議院だけの一院制になります。
そうなったら一体どーなるんだろー

あ、こういう余計な事は書かない、喋らない、だった。


で、何が言いたいのかと言われれば、懐疑的なものの見方というのは実は非常に大事な見方だという事です。


この業界に長くいると、私なら分かるけれどあの人がスリップしたなんて信じられないとか、あの人はもう大丈夫だろうけれど、私はまだスリップしっぱなしで、とかいう話や、私はもうスリップしない、なんであいつらいつまでたってもスリップしっぱなしなんだろね、とか、私はギャンブルはもうお腹いっぱい賭けたからもう沢山なんだ、スリップしてる人はまだやりたりないんでしょう、とかいう話をたまに、というかわりとよく聞きます。


それはとても高慢なものの考え方であり、自己中心的な見方です。


一つは、つまり、自分は間違ってもしょうがないし自分は滑ってもしょうがない、だって自分は間違える存在。
けれどもあの人は間違ってはいけないしあの人は滑ってはいけない、だってあの人は間違えない存在だから、という見方です。


極端に感じるかもしれませんが、これは相手を自分の信仰の対象にしている頻出パターンです。
よって自分にとっては相手は神かそれに近い存在なので間違ってはいけないわけです。
間違えない存在であると自分は信じていますので、その自分の信仰を証明するためには相手が間違えない事を監視する必要が、疑ってみる必要があるのです。
どうして疑ってみるかといわれれば、ただ信じているよりも、自分の基準で間違っていない事を見続けていた方が確かだからです。


さて、見続けるにあたってはの間違えを図る物差しが必要になりますが、その物差しは自分が用意する事になります。
相手にはその基準は決められません。物差しを決める、物差しを必要としているのは自分であって、相手ではないからです。
そしてその物差しの目盛の幅を決めるのは、その相手に求める自分の理想像です。
その理想が高ければ高いほど物差しの目盛は小さく(厳しく)なりますし、理想が現実的であればあるほどその目盛は大きく(寛容に)なります。


周りの人達が崇め奉るから盲目的に信用してしまった、私はあの人のいうなりだった、おかしいとは思ったけれど相手を信じてついていった、といったような事を聞くときもあります。
実際に一度でも目盛に触れたら幅を広くすれば問題はありません。
でも大抵はその逆パターンになるような気がします。
一度でも自分が信仰した相手なのだから「そんなはずはないんだ、相手は間違えるはずが無いんだ、私が何かまずかったんだ、だから相手を信じよう」と思い、その思いを裏付けるために今までよりももっとその目盛りが小さくなっていく、そんな流れではないかと思います。
そう考えれば根本として相手は間違えない、自分は間違えるというパターンから変化がありません。


で、自分への物差しはどうかと言われれば、自分は間違える存在だから物差しは必要ない、という事になります。
物差しが間違えない事の証明に必要なだけなので間違える自分には不要なのです。


さて、次に二つ目のは一つ目とは全くの逆に見えるもので、俺最強伝説まっしぐらなパターン。


俺は間違えないから、おまえら俺のいう事しっかり聞いとけ。
俺の言うとおりにしておけば大丈夫だから、という俺間違えない人、俺以外間違う人の見方です。


この超上から目線の人間の物差しは、今度は俺以外の間違う人間達が、一体どのくらい間違うのか、その間違えた分だけ俺が矯正してやる的な間違いの幅を知るための物差しが必要になります。
自分は間違えない人間なので、間違える幅を図る物差しは不要なのです。


そしてその物差しの目盛の幅を決めるのは、その相手に求める自分の理想像です。
その理想が高ければ高いほど物差しの目盛は小さく(厳しく)なりますし、理想が現実的であればあるほどその目盛は大きく(寛容に)なります。


(ん、さっきと同じ文章コピペできたぞ。)


ミーティング中、自分が話している最中に誰かが隣の人とヒソヒソ話を始めました。
私が今話しているのに、何でこいつら黙って聞いてないんだと、物音出して邪魔すんじゃないと、そう思いました。


ミーティングの最中、仲間が喋っている時にそういえば隣の仲間に言い忘れていた事があって私はヒソヒソと声をかけて用件を伝えました。
一言二言で終えるつもりが結局1分近く喋ってしまいました。
それはわざわざミーティングの最中に話さなくてもいつでも、メールでも伝える事が出来た事でした。
でも私はその時になんとなく伝えたかったし、それにGAに無関係な事を話したわけではないのだからいいだろうと、そう思っていました。


疑う、という見方はいい意味にとられないかもしれませんが、疑って見ることで今まで気付く事が出来なかった事に、「あっ!」となる事は実は沢山あります。


そして疑ってみるべき対象は「自分」です。
上の2パターンは相手だけを疑って自分は疑っていないのです。
結局両方とも俺最強パターンの裏表だから相手にしか目がいってないのです。


自分を疑う目が出来て、自分を直視していくのは結構しんどい。
でもそれをやってはじめて、自分の中にスピリチュアルな感情というものが芽生えるのではないか、思いやりや寛容、正直とか謙虚という感情は、自分の理想と現実がぶつかってせめぎあった結果として生まれてくる妥協点だと私は思っています。
ちなみにこれをどうも死ぬまで続けていく事が、アブスティナンスを続けていく事に繋がっていくのではないか、とも思っております。


そして自分を疑いつつ、相手も、GAも、仲間も、プログラムも、とりあえず全部疑っていくと妥協点それ自体が変化していくと思います。


未熟な話を延々書いてしまった上に、ここまで書いちゃったからこれを消す気にもなれない・・・
口とペンの抑制ほど大事な事はない、と書く奴ほどそれを抑制できないというのはやはり真実です。

一より習ひ 十を知り

5歳姪と2歳甥、騒ぎながら遊んでは喧嘩して騒ぎ、歌を歌い始めたと思ったらまた癇癪をおこして騒ぎ。
騒々しいとは正にこういう状態であります。
耳栓が全く役に立ちませんでした。


子供の仕事は大声出して遊ぶ事。
大人の仕事は受忍する事。


子供達が帰って母と二人きりになったら静かな事静かな事、この上もありません。
ただしこの状態が長く続くとあんなに五月蝿く思っていた子供達の声が聞きたくなる。
おもしろいものです。


話は変わりまして、内田樹さんの著書「日本辺境論」の中にこのような記述がありました。

ここから



断定的であるということの困った点は、「おとしどころ」を探って対話することができないということです。
先方の意見を全面的に受け容れるか、全面的に拒否するか、どちらかしかない。
他人の受け売りをしている人間は、意見が合わない人と、両者の中ほどの、両方のどちらにとっても同じ程度不満足な妥協点というものを言うことができない。
主張するだけで妥協できないのは、それが自分意見ではないからです。


「虎の威を借る狐」に向かって、
「すみません、ちょっと今日だけ虎縞じゃなくて、茶色になってもらえませんか」
というようなネゴシエーションをすることは不可能です。
狐は「自分ではないもの」を演じているわけですから、どこからどこまでが「虎」の「譲ることのできない虎的本質」で、どこらあたりが「まあ、そのへんは交渉次第」であるのか、その境界線を判断できない。


もし彼がほんものの「虎」なら、
「サバンナで狩りをするときは、茶色の方がカモフラージュとして有効ですよ」
というような訳知りの説明をされたら一時的に「茶色」になってみせるくらいやぶさかではないと判断するというようなこともありえます。


でも「狐」にはそれができません。「自分ではないもの」を演じているから。
借り物の看板のデザインは自己責任で書き換えることができない。
私たちは「虎」とは交渉できるけれど、「狐」とはできない。
そういうことです。


「虎」なら「自分は『虎』として何がしたいのか?」という問いを自分に向けることができます。
でも、「狐」は「自分が『虎』として何がしたいのか?」という問いを受け止めることができない。
他人の受け売りをして断定的にものを言う人間が交渉相手にならないというのは、彼が「私はほんとうは何がしたいのか?」という問いを自分に向ける習慣を放棄しているからです。




以上


他人の受け売りとは、例えば私がこのように他人の考えを何の自分のフィルターも介さずに転載(無断)する事です。
自分のブログを持って記事を書いた人なら、もしかしたら経験された事があるかもしれません。
それは、他のサイトとかあるいは何かの本とか出版物の中で自分が気に入った記事を見つけ、それを自分のブログでも紹介したいと思い、それをコピペ、或いはタイプして自分のブログの記事にしてみた。
でもそれを記事にしているうちに、自分のやっていることが何か虚しくなったり、意味が無いと感じ始めたりして、その記事を結局は破棄してしまう、といった事です。


それは「日本辺境論」で書かれているところの、自分は「虎」ではなく、虎の威を借る「狐」であることに気付いたからなのでしょう。
自分の考えではないから、他の考えと対峙したときに妥協する点がどこかも分からない。
妥協ができないから、というよりは妥協とはどういうものか分からないから主張する。


このあたり、ハンドブックに「未熟」と書かれている強迫的ギャンブラーの本質そのままです。


モノマネは最初は必要、やり方がわからないのだからお手本が必要なのです。
そして真剣にその人の真似をして覚えていって、その経験から自分の考えが生まれるから。
スポンサーシップもそうでしょう。


でもいつまでもモノマネばかり、自分の考えが持てなければ、いつまでたっても苦しいまま、変わらないまま、生きていくことになるでしょう。


「私はほんとうは何がしたいのか?」
それを考え、決めることができるのは自分です。


ミーティングやプログラムも続けていくことによって見えてくるものが沢山あります。
一つのことが続いてくると、続けることがどれだけ難しいのかが見えてくる。


さて、最後も狐らしく受け売りの言葉で。
一より習ひ 十を知り 十よりかへる もとのその一

ギャンブルの話

うちのグループでは初めての人がミーティングに来てくれた時にはビギナーズミーティングを開催しています。
読んで字のごとく初めての方に向けて開催するミーティングです。
実際他のGAグループではビギナーズミーティングでどんな事をしているのかは分かりませんが、うちのグループでは自分のギャンブルの話をするようにしています。
初めてきた人には、どんな話をするよりもギャンブルの話に勝るものはない、と今はそう思っています。
目的は、「共感する」、それだけです。


何故か最近は仲間にお願いをすると、強迫的ギャンブラーのくせに素直にその通りに話をしてくれるという事が何回か重なっていたので、GAに繋がる前のギャンブルの事を話してネ、とソフトに命令お願いしたらみんなその通りに話してくれました。



GAに何回か通ってみて確かめてみて、と私は今まで随分言ってきましたが、それはまた次回に来てくれるかもしれないという期待とともに、もし次回以降ミーティングに来なくなってもそれはその人の問題だからしょうがないという冷徹な気持ちもあるのです。
ただし、今後その人がどうするかはその人の問題だとして、だとすればそのミーティングで自分が出来る事とはなんだろうと、自分の側の問題は一体なんだろうと、そう感じるようになりました。


一期一会、という言葉があります。
実際一回きりで顔をもうあわせていないという仲間は沢山います。
今日以降、次にその仲間達と顔を会わせる機会はもしかしたらあるのかもしれません。
その時お互いにギャンブルが止まっているかどうか、どこで出会う事になるのかもわかりません。
でももう一生そのまま顔をあわせないかもしれません。
これは神のみぞ知るところであって、人間にはどうしようもありません。


だから、たった一回のその機会を大事にしなければいけない、という事になるわけです。
偉そうな事はさらさら言えませんが、最初で最後になるかもしれないその機会で適当に流してしまい、後味が悪い思いはしたくはないのです。


その一回で自分が出来る事は何なのか、自分なりのGAの効能を仲間に説くことなのか、プログラムの素晴しさを笑顔でフレンドリーに話す事なのか、とりあえずGAに何回か足を運んで仲間の話を聞いて後は自分で判断しろという事を話すのか、それとも今の日常で思う事、感じる事を伝えるべきなのか、・・・さて・・・どうなのか。


自分が初めてここに来た時はどんな気持ちだったか。
こんなどうしようもない奴は自分だけ、とは私は思っていた。
さて、そんな相手に共感を求めるとしたら、どうすればいいのか。


・・・
そうすると、ギャンブルの話に勝るものは何も無い、という結論に至った訳です。


ので、新しい人が来るたびに何回でも自分のギャンブルの話をしています。
冒頭で今回仲間にギャンブルの話をお願いしたのもそういう私の野望のせいです。
ここ2ヶ月くらいでしょうか、毎週毎週新しい仲間が来てくれたので自分の話を延々と繰り返してきて、流石に最近疲れてきました^;
ギャンブルの話の難点は話すだけ、聞いているだけで相当消耗して疲れてしまう、という事です。


でもだからこそ、自分もそうかもしれない、同じかもしれない、一人じゃないのかもしれない、と少しでもそう感じてくれる力が出てくるのかもしれません。

砂場の秩序?

法律の勉強をするのは今回が初めてではないのですが、目うろこというより言葉の意味が分かっていなくて??という自分の理解度を考えると今回が実は初めての勉強になるのかもしれません。


法律は国民の権利や自由を制限する。(何となくわかってたつもり)
憲法は国家権力を制限する。(?)
確かに条文には公務員その他には憲法を守れと書かれていますが、国民は憲法を守れなんていう事は書いてありません。


憲法と法律では向いているベクトルが全く逆のものだとは知りませんでした。



それでもって憲法は一人一人の国民個人の尊重を最重要の価値観としているという事。
公共の福祉というものも、公序良俗というか社会生活を営む上で自分が受忍しなければいけない社会ルールというイメージだったのに、これは憲法が最高の価値を置いている個人の権利同士がぶつかった時の矛盾を調整するもののようで。
・・・無知というのは怖いものです。


ところで人が群れて社会を形成していけば憲法や法律のような決まり事が必要になってきますが、強迫的ギャンブラーの集まりであるGAにはそういうものがないです。
先行く仲間たちが私達に残してくれたのは、回復のためのプログラム(12のステップ)と一致のためのプログラム(12の伝統)という提案であり、規則や命令といったものはありません。


仮にルールがあったとしても、私たちは何よりも決まりを守らない人種であることと、ルールを破ったメンバーに直接強制する正当な権限をGAでは誰も持っていません。
憲法や法律が有効に作用しているのは強制力があるからでGAにはそれはありません。
GAメンバーはギャンブルをやめたいという願いを持つ事だけで繋がっておりメンバー同士は平等、という建前です。
ちなみにギャンブルやめたい、というのを証明するために何か必要なものがあるのか?、と言われればなにもないですから、そう意志表示すれば誰でもGAメンバーになります。


そういう風に言われるとGAは無法地帯と思われるでしょうが、確かに「無法」地帯ですが実際それで無秩序かと言われれば秩序はあります。
それは一致のためのプログラムの提案を受け入れた訳ではなく、単純にGAに居座っている時間の長さだったり、ミーティングへの出席頻度であったり、グループの役割についていたりで、それが発言力や影響力という力になり、それを行使するメンバー達とそれ以外のメンバー達とで目には見えませんが序列が存在し、それで秩序が形成されます。
(一致のためのプログラムはルールではないのですが、こうなってくるとやっぱり私たちにはルールなのでしょう。)


幼稚園の砂場で遊ぶ園児達にも秩序は存在します。
幼稚園に入園してそこの園児という立場は共通で平等でも、砂場で遊んでいるうちに園児たちの中でも優劣がついていきます。
体の大きい子やケンカに強い子は自然とリーダーシップをとるようになるでしょう。
私達も幼い頃にそのような個人の力関係に基づいた制限を受けたはずです。
GAと幼稚園の砂場の秩序は見た目の要素は違うかもしれませんが、力関係で外から抑えられているという点ではさほど変わりません。


ところでGAには前述した一致のためのプログラムというものがあり、今までグループを運営していく上でこうやって私たちは失敗してきたから、こうはしないほうがいいよ、という先人たちの経験がハンドブックに書いてあります。
一致のためのプログラムで提案されている内容は、・・・すべきである、と書かれているものが多く、提案とはいうものの、基本的にはGAメンバーに対して制限を課すようなものと思います(私は)。


それは強制力のない法律のようなもので、存在としては道徳というものに近いかもしれません。
「道徳」とは権力に裏付けられた「法律」と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理。
よって道徳は自発的に守ることで、自分自身に対して規範に近いものとして有効になります。


砂場の秩序のように外からの力で制限されるのではなく、自ら望んでその制限を享受する、というような図式になり、ベクトルの方向がちょうど逆になります。
一致のためのプログラムは内側からのベクトルが働いて、初めて機能するように多分出来ています。
自分で価値を認めたものは大事にしますし、続けていきたい、残していきたい、と思うようになります。


自分で価値を認めたものと、そう思うようになるには回復のためのプログラムを踏んで、自分なりのスピリチュアルな目覚めを経験する必要がある、という事になります。
なのでルール云々言う前に、やることがあります。
まぁ、それを経験したとしても、サボればまた砂場にすぐ逆戻りしますが。


一致を保つためには、私たちの経験は、次のことを示している。
1.優先されなければならないのは、全体の福利である。個人の回復はグループの一体性にかかっている。
~中略~
12.無名であることは、GAプログラムのスピリチュアル(霊的)な基礎である。それは各個人よりも原理を優先すべきことを、つねに私たちに思い起こさせるものである。


※ここまで書いた事はあくまで私の意見でありGA全体の意見を代表したものでも一部を代表した意見でもありません。

時間は容赦なく・・・




ベルトまいて変身するのをワクワクドキドキして口を半開きにしながら見てたあの時と、今と、実際中身は対して変わっちゃいないんだ。
大きくなった(老けた)のは体だけだ。


少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草の夢
階前の梧葉已に秋声


若いときはうつろいやすく、学問を成すことは難しい。
僅かな時間さえも軽んじてはいけない。
池のほとりの春草が萌え出る夢も覚めぬうちに、もう庭先の青桐の葉が秋の訪れを告げているのだから。



いいなー ファイズのベルト、ほしーよー

気がつけばこの時間

気付くともうこんな時間になっておる。。。。


自分のこれから進もうとしている道筋的には絶対に落とせない試験。
ここで落とすと最短でももう一年、時間がプラスされる。
自分の年齢を考えれば記憶力ももちろんの事だけれど、それ以上に自分が実質的に働ける時間が少なくなる。
行こうとしているとろこは今まで経験した事の無い世界だし、自分が動けるようになるまでに余計に時間がかかる。


今は幸い勉強する時間は取れるけれど、やればやるほど不安になってくる。
8月ちょいすぎからここまで。
結構勉強はしたけれど、覚える事、理解する事が多くてなんぼやっても不安が消えない。
実際今試験受けたらかなりマズイ結果になりそうなのは想像に難くない。


もっと早くからやっていればと思っても、時間があれば絶対私はやらないし、勉強した事を片っ端から忘れていっても年のせいにしてるだろうし。


先の心配をしてもしょうがないから自分なりに悔いの無いようにするしかない。
問題解いていくしかない。
とりあえずは目の前の試験を突破すること。


法律とは考えに考えて作られたものというのがよく分かる。
暗記ももちろん必要だけど、それ以前に法律的素養を身に付けていかないと問題が解けないし理解できない。


「自分の話をする前に自分のGAネームを名乗ってから話をしてください。」
「そう言われたから、自分のGAネームを考えて、名乗って、それで話をし、以降その通りにしています。」
それこそ暗記ものと一緒のようなもので。


アノニミティってどういう意味?
匿名っていう事なの?
一致のためのプログラムには無名って書いてあるけれど、匿名と無名とはどう違うの?
どうして自分の話をする前に名乗るの?


新しい仲間にそう質問されたらどう答えるか?
ま、別に答えなくてするーしてもいいけど。


勉強も法律もね、辿っていくとどうも繋がっていくようです。
人の世を構成している様々なパーツって、多分一緒なんだろね。


さてー、明日の為に寝るかー

離れる事が必要だった。

特定の人の何かに対して、いつの間にか自分が執着している。


そういうときは相手を屈服させたいとか、理解させたいとか、謝らせたいとか、どうしても今これを手に入れたいとか、あの場所に行きたいとか、その思いが頭から離れなくなる。


そういった執着事のなかでも、とりわけ恨みという感情はこわいものだ。
一度取り付かれたら中々離れていかない。
というか実際のところは恨みは離れないのではなくて、自分がそれをギュッと掴んで離さないだけなのだから、一人相撲で遊んでいるだけか。


理解されるよりは理解することを私が求めますように。


霊的な行動のプログラムを中止し、自分の力で良くなったのだと思うのは簡単だ。
だがそれは問題が起こるほうへ一直線に向かっていることである。


全く持って毎日が綱渡りだな(笑)

presented by 地球の名言

プロフィール

よはん

Author:よはん
強迫的ギャンブラー よはんの備忘録
GAの事、自分の事、今考えてる事など徒然書いています。

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